薩露の深い関わり

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島津忠義公とニコライ皇太子の深き友情の原点!!

父帝アレクサンドル三世の名代としてシベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、

ニコライ皇太子は艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問し島津忠義公と出会う。

ニコライ皇太子の東方旅行 来鹿までの足跡

【旅程 概要
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1890年11月4日

ニコライ皇太子、ジ ョージ親王が首都ペテルブルグから東方旅行に出発

ポーランド(ワルシャワ)

オーストリア(ウィーン)

軍艦パーミャティ・アゾヴァ(通称アゾフ号)で、オーストリアのアドリア海に面するトリエステ港[現イタリア]を出発

ギリシャ国ゲオルギオス親王(ニコライ皇太子の従兄弟)と合流

エジプト(ナイル川をアスワンまで遡行)

スエズ運河

インド

1891年2月12日

セイロン(現スリランカ)到着

シンガポール

ジャワ島

サイゴン(現ホーチミン)

チョロン(ホーチミン郊外)

バンコク

1891年4月4日

香港 到着

広東

揚子江を漢口[現、武漢]まで遡行

1891年4月27日  長崎 到着

1891年5月 6日  鹿児島到着

1891年5月 9日  神戸到着

1891年5月 9日  京都到着

1891年5月 9日  京都見物

1891年5月19日  滋賀県庁で昼食後、宿舎の京都・常磐ホテルへ帰途中の大津(琵琶湖畔)を巡行中に大津事件遭遇

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1891年5月19日 日本旅行(上京)を中止し、神戸港よりウラジオストクに向け離日

ニコライ皇太子来日決定までの経緯

1890年 4月 1日 ロシア首都ペテルブルグ駐在の日本特命全権公使 西徳二郎(薩摩藩出身、後に外務大臣、枢密顧問官男爵) から外務大臣 青木周蔵あてに電報が発信される。

ニコライ皇太子鹿児島訪問の二つの説

  1. 「日本側が旅行計画 に含めた 」という説

皇太子に同行したロシア人ジャーナリスト、ウフトムスキーの主張

  1. 「駐日ロシア公使 シェーヴィチ公使が事前に、薩摩とロシアは歴史的関係が深いので、ぜひ鹿児島を見たいといってきた」という説

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鹿児島出身の宮内省秘書官兼式部 長崎省吾が在京の島津忠義公を訪ね、「ニコライ殿下を国賓として遇するのは明治天皇のご意思」と説明。

忠義公:皇室と国家のためならと引き受ける。

外国人といえばイギリスの公使パークスと武器商グラバーの2人しか知らなかったので、接待役として元外交官の長崎省吾を伴って急遽、鹿児島へ帰った。

長い間政権を握っていた幕府を、薩摩藩を中心とした勢力が武力で崩壊させたことは、諸外国の眼を薩摩藩に注がせた。明治維新後、西南戦争はあったが明治政府の要職は薩摩藩出身者が多くを占め、鹿児島は日本を動かす原力との観があった。このような性格をもつ鹿児島の実情を見ることは、日本を知る上で重要であり、皇太子がわざわざ鹿児島へ赴く理由であると考えられた。

ニコライ皇太子鹿児島訪問

1891年 5月6日朝 鹿児島湾入港

午前 8時10分 鹿児島の町に 21発の花火が打ち上げられる。

公爵島津忠義、有栖川宮威仁親王 、鹿児島県知事山内提雲をはじめ書記官が、正装で波止場で迎える 。「アゾフ号」からおろされた短艇に乗った皇太子ニコライとゲオルギオス親王が波止場に上陸 。

山内県知事の先導で人力車に乗り、県庁に向かう。県庁で日本の正教会司祭に会う。

県庁でしばらく休息 。

皇太子一行は人力車を連ねて士族授産場に行った。ゲオルギオス親王とともに紡織場、煙草製造所等を巡覧し、山内県知事は最高級の紙巻煙草を献上した。

市民歓迎場の名山小学校に赴むく。小学校庭で鹿児島古来の撃剣と棒踊りを披露したが、皇太子は上機嫌で自ら棒を手にして棒踊りを試みたりして知事らを喜ばす。昼食の時間になり、長崎省吾の指示で長崎からまねかれた西洋料理店外国亭の主人による西洋料理が出され、皇太子は食事をとった。

島津忠義公の屋敷に向かう。フロックコートを着た忠義公が門内で出迎え、その背後には鎧、甲に太刀を腰にした武士装束の者が 200人ほど控えていて一斉に頭を下げ、皇太子と親王を驚かせた。

ついで、200 人ほどの武士装束の侍踊りが披露された。犬追物の催しにも驚嘆なさったとのこと。島津家代々の鎧、甲、刀、槍等の武器をはじめ、絵画、古薩摩の焼物等の披露もあり、忠義公は、皇太子、ゲオルギオス親王の姓名頭字組み合わせた文字入りの美しい壺(2尺ばかりの薩摩焼花瓶)を献上なさった 。

ついで 、広間で藩政時代の日本料理のもてなしがあった。侍踊りや犬追物と対照的な武家子女の給仕の優雅さに、皇太子は感嘆している様子であった。

夕刻になり、皇太子とゲオルギオス親王は、島津家前の波止場から忠義公や知事らに見送れて短艇に乗り「アゾフ号」に向かい、午後 6時 30 分、「八重山」を先導艦に「ナヒモフ号」「モノマフ号」二艦をしたがえて鹿児島湾を離れていった。

神戸から京都、そして大津事件へ

1891年 5月 9日神戸港に入港し、神戸をしばらく見学してから汽車で出発し京都到着。

1891年 5月 11 日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライ皇太子 、ゲオルギオス親王、有栖川宮威仁親王の順番で人力車に乗り大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライ皇太子を負傷させた。(大津事件)

1891年 5月 13 日 明治天皇が東京から急遽 ニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコ ライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った 。

島津忠義公の献身的なお見舞いと友情の芽生え

1891年 5月 15 日 島津忠義公と島津家家来東郷重持が見舞う 。

ニコライ日記の中で「この2人の訪問は私にはとても嬉しかった」と書いてある 。

忠義公は、長崎省吾の電報で凶変を知り、明治天皇を助けるために鹿児島から駆けつけてきた。

1891年 5月 16 日 日本旅行(上京)を中止し、ウラジオストクへ直行するよう父帝アレクサンドル三世の命令がくだる。

1891年 5月 19 日朝 島津忠義公が再びお別れの挨拶のためにニコライ皇太子を訪問。

忠義公の誠意と保守主義がニコライ皇太子との信頼関係を高め、日露外交のために大きな意味をもった。島津忠義、忠重父子は皇太子ニコライの帰国後も明治天皇の対露積極外交を助けて活躍する。

明治天皇は、アゾフ号上での昼食招待に応じられ行幸。 川島甚兵衛の傑作「綴錦犬追物 壁掛」(横 3.65 メートル 、縦 2.10 メートル )を ニコライ皇太子に贈呈 。

島津家に伝わる犬追物をよく知っていた天皇は、ニコライ皇太子が強い関心を示したことを忠義公から聞き、大津事件に対する詫びの印に贈った。

1891年 5月 19 日 ニコライ皇太子の東方旅行は、大津事件という不測の事態のために予定より2週間に短縮され、一行は神戸からウラジオストクに向け帰国となった 。

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参考文献:保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』

吉村 昭『ニコライ遭難』

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